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第1章―航空研究機関への期待― [論文紹介]

[位置情報]水沢光「太平洋戦争初期における旧日本陸軍の航空研究戦略の変容」東京工業大学博士論文、2004年。

<第1章の概要>
 旧日本陸軍における軍事思想は、銃剣突撃で勝敗が決まるとする白兵主義であった。陸軍にとって、航空兵器は、歩兵の突撃を支援する一手段に過ぎなかった。このため、航空兵器の研究は、周辺的な問題として、陸軍外部に依存する傾向にあった。
 『昭和産業史』によれば、日本の航空機工業発達史は、次のように時代区分される。
第1期は、輸入時代(1910-1915)で、海外から輸入した航空機による飛行がおこなわれた。第2期は、模倣時代(1915-1930)で、外国製の航空機やエンジンの製作権を購入し、外国人技師を招聘しての技術導入が行われた。第3期が 自立時代(1930-1945)で、日本独自の設計がなされた。陸軍は、1933年10月に、航空器材に関する研究方針を初めて策定した。1933年以前は、海外技術に依存している状況で、国内で独自の研究方針を決めても意味がなかったのが、ようやく研究方針を国内で決めることができるようになったのである。陸軍内で、航空研究機関への要求が生まれたのは、こうした時期だった。
 陸軍内で初めて航空研究機関への期待が表れたのは、1935年1月に、いわゆる統制派が作成した構想である。統制派は、皇道派と対立する陸軍内の派閥で、皇道派が「日本主義」を標榜する観念的な主張をおこなったのに対して、統制派は、より現実的であり、国家主義に基づく具体的な「改革」構想を研究していたといわれる。1935年の統制派の構想では、民間航空を航空予備軍と捉えて、軍事的観点からの民間航空の振興を求めている。統制派は、東京帝国大学航空研究所の研究を、学術研究に留まるものと批判している。そして、東京帝国大学航空研究所に代わる、応用研究をおこなう研究機関の新設を提言した。
 同じ頃、陸軍の航空関係者からも、ヨーロッパ・アメリカの状況を基に、民間航空の振興・指導統制を求める要求があがった。1935年4月から12月にドイツ、フランス、イギリス、イタリア、ポーランド、アメリカの6ヶ国を訪問した、陸軍視察団の報告である。視察団の団長は伊藤周次郎少将(航空本部技術部長)で、視察の主な目的は、航空技術の調査研究だった。視察団は、NASAの前身である、アメリカのNACA(航空諮問委員会)や、イギリスの航空研究委員会を視察し、これらの機関が、それぞれの国内の研究所に対し指導・統制をおこなっていると報告している。そして、日本でも、これを見習って、内閣直属の「航空技術研究委員会」および「国立中央航空研究所」を設立するべきだと提言した。提言では、主要幹部への軍人の登用など、軍部の要求が反映する組織を求める。視察団の報告は、軍部による航空研究機関への要求を、さらに具体的で説得力のあるものにした。
 さらに、1936年10月から1937年2月に主にドイツ(一部イタリア含む)を対象に再び航空視察団が派遣され、航空技術の研究体制に対する提言は、ドイツの組織をモデルにして提示された。視察団のメンバーは、いずれも陸軍中央部の人員であった。視察団の目的は、ドイツ空軍を研究することだった。ドイツは、1935年3月に再軍備を宣言し、空軍も新設され、その後短期間に軍備を拡張していた。視察団は、ドイツ航空省技術局の視察に基づいて、航空技術に関わる学術研究を対象にした統制機関の必要性を主張した。その目的は、研究事項及び施設の重複を避け、研究を国家(特に軍部)の望む方向へ向かわせることであった。また、視察団は、ドイツの組織をモデルにして、民間航空機製造会社と密接な関係をもつ大規模な中央航空研究機関の設置を求めた。報告によれば、ドイツの航空研究所は、建設費及び経常予算の大部分を航空省が負担する財団組織であり、航空機製造の現場と緊密な関係をもち、活発な「実際的研究」をおこなっているとされた。こうした報告の背後には、東京帝国大学航空研究所が、学術研究主体で、工業化に役立つ研究をしていないという陸軍の批判的認識があった。




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はじめに―第二次世界大戦期の科学技術動員― [論文紹介]

[位置情報]水沢光「太平洋戦争初期における旧日本陸軍の航空研究戦略の変容」東京工業大学博士論文、2004年。

<序章の概要>
 今日当然とみなされる科学・技術への国家的な支援は、第二次世界大戦時の科学技術動員を直接の起源としている。日本においては、特に太平洋戦争期の科学技術動員によって、科学・技術への国家的振興が本格化した。本論文は、今日自明の事柄とみなされる、科学・技術政策の源流を歴史的に分析するものである。
 論文では、航空技術を中心に扱う。航空技術は、太平洋戦争期の科学技術動員の中心的課題であり、第二次世界大戦期のアメリカ・イギリスの科学技術動員でも、まず動員が進められたのは、共通して航空機関係のものであった。日本においても、1941年に閣議決定された「科学技術新体制確立要綱」に基づいて政府の科学技術動員の中枢機関として設立された技術院は、その官制に明記されているように、航空技術の振興を中心とする行政機関であった。
 太平洋戦争期の日本では、三菱重工・中島飛行機・川崎航空機工業などの航空機製造会社で開発・製造がおこなわれる一方で、陸軍・海軍・各官庁それぞれに、航空技術に関する研究機関が存在していた。1941年の時点では、海軍には海軍航空廠、陸軍には陸軍航空技術研究所、逓信省航空局に中央航空研究所、文部省の管轄下に東京帝国大学航空研究所があった。本論文では、航空機製造会社ではなく、研究機関、特に軍の外部にあった、中央航空研究所と東京帝国大学航空研究所に焦点をあてる。東京帝国大学航空研究所は、本文中で詳しく述べるように、1940年頃から陸軍の委託研究を受け入れ、それまでの学術研究一辺倒から大きくその性格が変化した。また、1942年の技術院の設置にともない、技術院の管轄下に置かれることになった中央航空研究所も、陸軍の要求を契機に設立された研究機関であった。本研究では、こうした航空研究機関でおこなわれた研究課題を、陸軍がどのように位置づけていたのかを分析することで、航空研究機関の航空技術に関わる研究開発全体のなかでの意味・役割を明らかにしたい。
 第二次世界大戦期の科学技術動員に関しては、アメリカ・イギリスでの原爆開発やレーダー開発などを対象に、多くの研究がなされてきた。科学史分野でも、いわゆるビッグ・サイエンスや、冷戦期に顕著な成長を遂げた軍産学複合体制などの起源として早くから注目され、研究が進められてきた。
 これに対して、日本の科学技術動員に関しては、関連資料の多くが終戦時に焼却処分になったこともあり、長らく研究が進んでいなかった。近年になって、新たに資料が発見・公開され、当事者の回想によらない、実証的な研究が相次いで発表されている。日本科学史学会が、2003年度年会において、シンポジウム「日本戦時科学史の現状と課題」を開催するなど、関心が高まりつつある。
 先行研究では、日本の科学技術動員の特徴として、科学技術の振興をつねに底流とした動員がおこなわれ、アメリカ等で見られた大規模なプロジェクト研究がおこなわれることはなかったと指摘している。山崎正勝は、『井上匡四郎文書』に基づき、技術院において実際に行われた科学技術動員の制度的な特徴を論じている。山崎は、技術院における科学技術動員の特徴として、当初から科学技術振興と動員の二重の構造をもっていたこと、基礎研究を大きく含む研究動員がおこなわれたことを指摘している。また、広重徹は、日本では、近代的研究体制を作りだすことを、科学技術動員と並行しておこなわなければならなかったと述べ、戦時中に支出された研究費の膨張が示すように、動員体制のもとで科学研究活動は空前の規模に達したとしている。
 技術院に関しては、これまで、技術官僚のイニシアチブが注目されてきた。広重徹は、科学技術新体制について包括的に分析を行うなかで、日本の科学技術動員は技術官僚のイニシアチブで始まったと指摘している。また、大淀昇一は、企画院の技術官僚であった宮本武之輔を通して、官僚組織内における技術官僚の地位向上運動とからめて、「科学技術新体制確立要綱」の成立までを詳細に分析している。「技術者運動」は、官僚組織内の地位向上と国家政策への発言権の拡大をめざすものとして、大正時代から続いてきたものであった。科学・技術の質が勝敗を決する総力戦大戦下で、こうした「技術者運動」が活発化し、技術官僚の政治参画が実現したことを、大淀は実証的に明らかにしている。大淀は、技術官僚によって当初計画された技術院は、技術行政の統一機関を目指すものであり、その行政領域はあらゆる部門の科学技術を対象とする計画であったことを実証的に明らかにしている。
 技術院の設立に際して、行政対象を航空技術に絞るように陸軍が強い要求を行い、こうした陸軍からの要求の結果、技術院は航空技術の刷新向上を中心的な行政対象とする機関となったことが一般に知られている。沢井実は、『国策研究会文書』の分析を通じて、技術院の設立時の政策決定過程に焦点をあて、当時の陸軍の要求をも詳細に明らかにしている。一方、山崎正勝は、技術院において、実際に技術開発の中心が航空技術に置かれたことを明らかにしている。また、市川浩は、技術院を中心とした戦時中の研究計画に関し実証的に分析し、戦時研究の分散性・小規模性を指摘している。
 以上のように実証的な研究が進んでいるにもかかわらず、科学技術動員の進展と、当時の日本における研究開発(R&D)の置かれた具体的な状況との関係が明らかにされているとは言えない。例えば、広重の研究では、主に「科学」に重点がおかれ、大淀の研究では、官僚組織内での技術官僚の動向に焦点を当てているため。研究開発や技術革新に関する具体的な記述は乏しい。
技術院は行政官庁であったため、実際の研究活動は、技術院から委託・命令を受けた官民における研究機関でおこなわれた。技術院が指導したこれらの研究活動が、軍部・民間航空機製造会社における研究開発とどのような関係にあったのかについては、これまでの先行研究では十分に解明されていない。このため、航空研究機関の航空技術に関わる研究開発全体のなかでの意味・役割は不明のままになっている。
 本論文では、これまで、ばらばらに扱われてきた、政府と軍部の研究開発体制を、関連させて分析することにより、太平洋戦争期において、軍部が政府の研究機関に求めた研究開発上の役割が変化したことを明らかにする。応用研究の推進一辺倒から、「比較的基礎的ト見ラルヽ科学技術」を含むものへと、航空研究戦略が変容したことを示す。そして、海外技術からの自立期にあった後発工業国・日本における、研究開発の置かれた状況と関係付けて、日本の科学技術政策の特徴を分析する。その際、海外技術依存からの脱却を強く望んでいた軍部の要求に焦点をあてる。
資料としては、主に防衛庁防衛研究所所蔵の資料を用いた。これらの資料は、旧日本軍が作成した公文書や軍人の業務日誌からなり、防衛庁防衛研究所戦史室で書かれた『戦史叢書』で使われるなど、軍事史分野の研究としては、広く使われてきた。しかし、科学技術動員という視点からは、ほとんど扱われていない。こうした資料を利用することで、当時の航空研究機関に対する陸軍の認識を明らかにできる。
 第1章で、1930年代の陸軍による、航空研究機関への期待の特徴と、そうした期待の背景を明らかにする。第2章では、陸軍の期待によって、航空研究機関での応用研究が進展したことを述べる。第3章では、アメリカからの技術封鎖・情報封鎖を受けて、1941年に陸軍が、航空研究機関への期待を変化させたことを明らかにする。最後に、第4章で、こうした陸軍の主張により、航空研究機関が「新技術の開発」に向かったことを述べる。

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太平洋戦争初期における旧日本陸軍の航空研究戦略の変容 [論文紹介]

[位置情報]水沢光「太平洋戦争初期における旧日本陸軍の航空研究戦略の変容」東京工業大学博士論文、2004年。

<概要>
 本論文「太平洋戦争初期における旧日本陸軍の航空研究戦略の変容」は、序章及び本論5章からなる。
 序章では、科学技術政策が国の政策として展開されるのは、国際的にも第二次世界大戦を通じてであり、本論文の目的が、航空技術に関する旧日本陸軍の研究政策に焦点をあて、従来の先行研究で十分検討されて来なかった戦時動員の実態を分析することであることを示した。
 第1章「航空研究機関への期待の出現」では、日本の航空技術が自立期に入ったとされる1930年代に、陸軍の航空技術に対する関心が増大したこと、1935年に欧米に送られた航空視察団の報告書「陸軍航空視察団欧米航空事情視察報告」で、航空省及び国立中央研究所の設立が構想されたこと、また、1938年の「ドイツにおける航空視察報告」において、国内の航空研究機関が、工業化に役立つ応用研究を行っていないと主張されたことを明らかにした。
 第2章「航空研究機関での応用研究の進展」では、陸軍の主張が、陸軍省を通じて内閣への要求となり、国の航空研究機関に影響を与えたことを明らかにした。1938年に応用研究を目的として設立された中央航空研究所は、海軍と逓信省の連繋で設置が進められたものの、元来は陸軍の構想に基づくものであったこと、また、学術研究が中心であった東京帝国大学航空研究所でも、1938年以降、陸軍からの要求として高々度航空機、高速航空機、長距離航空機などに関する大規模な委託研究が受け入れられたことを示した。
 第3章「『独創的技術発達ノ温床』を要求」では、1940年前後に、日本に対する連合国側の技術・情報封鎖が本格化したことにより、陸軍が基礎的な研究の重要性を認識したことを明らかにした。1941年に陸軍はドイツ・イタリアに視察団を派遣し、海外情報途絶に対する危惧を初めて表明するとともに、対日技術封鎖に対抗するために、広範囲にわたる研究を継続し「独創的技術発達ノ温床ヲ培養」することを強く求めたことを示した。
 第4章「技術院設立と科学技術振興」では、技術院を構想する過程の中で、「基礎研究」という言葉が初めて行政文書の中に登場したこと、学術行政、産業行政をそれぞれ掌握する文部省、商工省の掌握分野に抵触しない形で、技術院が基礎研究、応用研究、工業化研究を一貫して統制する機関として創設されたことを明らかにし、また、陸軍の強い要求で、技術院が航空技術に重点を置くことになったことから、技術院における航空技術関係の研究課題の多くが、陸軍がドイツの視察から得た成層圏飛行などに関連したテーマであったことを具体的に提示した。
 第5章「まとめ」では、論文全体の論点を総括して、後発工業国であった日本が、1930年代後半の技術・情報封鎖を受けて、応用研究重視の政策を修正し、戦時でありながら基礎的研究の追求を企図したと結論した。また、本研究の科学技術政策上の含意を、欧米からの日本に対する「基礎研究ただ乗り論」対応として、1980年代後半に生まれた基礎研究重視政策と対比して、提示した。
 本論文は、従来必ずしも実証的に明確でなかった第二次世界大戦初期の日本の航空技術研究政策の歴史的展開を、欧米、とりわけドイツの調査報告を受けて、陸軍の研究戦略が進展する過程に沿って明らかにしたものである。

<追記>
[位置情報]博士論文が下記書籍で紹介されました。

橋本毅彦『飛行機の誕生と空気力学の形成―国家的研究開発の起源をもとめて―』東京大学出版会、2012年。


飛行機の誕生と空気力学の形成: 国家的研究開発の起源をもとめて

飛行機の誕生と空気力学の形成: 国家的研究開発の起源をもとめて

  • 作者: 橋本 毅彦
  • 出版社/メーカー: 東京大学出版会
  • 発売日: 2012/09/25
  • メディア: 単行本



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零式艦上戦闘機 [論文紹介]

[位置情報]水沢光「第3章 空戦兵器―零式艦上戦闘機」(山田朗編『戦争II 近代戦争の兵器と思想動員』青木書店、2006年3月)、75-92頁。

<概要>
 零式艦上戦闘機は、太平洋戦争期の日本を代表する航空機であった。1937年より、旧日本海軍からの指示を受けた三菱重工業が、堀越二郎を設計主務者として開発した。日中戦争後期(1940年)から太平洋戦争全期にわたって使用され、旧日本陸海軍機では最大の10425機が生産された。1945年4月以降の時期においても、全海軍機生産数2840うち、なお1039機を占めていた。零式艦上戦闘機は、優位な後継機が開発されなかったため、太平洋戦争終結まで、海軍戦闘機の主力機でありつづけた。
 本章では、零式艦上戦闘機に焦点をあてながら、旧日本海軍が航空戦力をどのように捉えていたのかを分析する。当時、急速に航空技術が発展するなかで、航空機の兵器としての評価も移り変わっていた。零式艦上戦闘機の開発以前の時期には、航空機には、従属的な役割しか与えられていなかった。零式艦上戦闘機が開発された時期に、航空戦力の捉え方に大きな変化が生まれた。海軍の航空関係者を中心に、航空機を海上戦力の中心に位置づけようとする軍事思想が力を持ち出したのである。零式艦上戦闘機の開発と軍事思想の変化が重なったのは、偶然の一致ではない。高性能を実現した零式艦上戦闘機の存在自体が、新たな軍事思想を促進する働きをすることとなったのである。
 零式艦上戦闘機は、太平洋戦争期の日本において、航空戦力の到達点と限界を象徴する航空機であった。高性能を実現した零式艦上戦闘機等の出現によって、航空機が戦艦にとって代わるとする航空主兵論は、少なくとも航空関係者にとっては現実的なものとなった。一方で、工業生産力等を含めた広い意味での航空技術の限界から、零式艦上戦闘機以後、後続機を開発することができず、また、戦略空軍を構築することもなかった。こうした状況のなか、時代遅れとなった零式艦上戦闘機は、主力戦闘機として終戦まで戦い続けることを余儀なくされ、最後には、爆弾を装備し特攻作戦の主力として使用されたのである。
 本章では、まず第1節で、零式艦上戦闘機以前の空戦思想について概観する。ついで第2節では、零式艦上戦闘機開発の目的を、軍事思想と関連づけて分析する。第3節では、艦隊とは別に基地航空隊が整備されたことの意義を明らかにする。最後に第4節では、零式艦上戦闘機からみる、太平洋戦争期日本の航空技術のおかれた状況について検討する。


戦争〈2〉近代戦争の兵器と思想動員 (「もの」から見る日本史)

戦争〈2〉近代戦争の兵器と思想動員 (「もの」から見る日本史)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 青木書店
  • 発売日: 2006/03
  • メディア: 単行本



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科学コミュニケーション論―イギリス(主に王立協会)、アメリカ、欧州の場合― [論文紹介]

[位置情報]水沢光「第1章 英国における科学コミュニケーションの歴史」(藤垣裕子、廣野喜幸編『科学コミュニケーション論』東京大学出版会、2008年)、3-20頁。

[位置情報]水沢光「第2章 米国および欧州の傾向」(藤垣裕子、廣野喜幸編『科学コミュニケーション論』東京大学出版会、2008年)21-38頁。

<概要>「第1章 英国における歴史」 
英国では、古くから、科学を一般に普及するため様々な啓蒙活動が実施されてきたが、近年における科学コミュニケーション施策の直接のきっかけとなったのは、1985年の王立協会の報告書であった。本章では、まず、19世紀の啓蒙活動について簡単にふれた後、王立協会の報告書と、報告書の影響下に設立されたCOPUSの活動について概説した。次いで、BSE問題を契機に政府や科学者に対する不信感が高まり、2000年前後に科学コミュニケーション施策をめぐる政策転換がおこったことを述べた。最後に、科学コミュニケーションに関する2000年以降の状況について概観した。 英国では、1985年の王立協会の報告以降、数々の試行錯誤を重ねながら、科学コミュニケーション活動を発展させてきた。当初は、科学者による公衆の科学理解増進を目指す活動が中心であったが、BSE問題をきっかけに、科学者と公衆の対話を重視する方向へと転換した。英国でおこなわれた様々な活動や議論は、今後の日本において科学コミュニケーション活動を進める際にも大いに参考になるだろう。

<概要>「第2章 米国および欧州の傾向」
 米国および欧州においても、近年、科学コミュニケーションの拡大を図るため、多様な活動が試みられている。本章では、米国における科学コミュニケーション活動の傾向と、欧州における特徴的な活動について概説した。
米国および欧州では、それぞれ多様な科学コミュニケーション活動が実施されているが、大まかに言って、次のような特徴を持っている。米国では、市民の科学研究に対する支持が比較的高く、科学者から公衆や政府に向けた情報発信が盛んであり、また、科学と社会の情報伝達を担う人材の養成が組織的に実施されている。一方、欧州では、市民の科学への関心が相対的に低く、科学技術の急速な発達に対する懸念が強いなかで、科学技術に関する意思決定に市民の参加を促すための取り組みが発展している。各国の社会状況に合わせて発達した多彩な活動は、日本社会に合った科学コミュニケーション活動を探る上でも重要な手がかりになるだろう。


科学コミュニケーション論

科学コミュニケーション論

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 東京大学出版会
  • 発売日: 2008/10
  • メディア: 単行本



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